例えば好きと言ってみたところで。
 例えば愛してると言ってみたところで。
 何も変わらないのはわかっているけれど。
 わかって、いるけれど―――……



          羽純



 僕が初めて「彼女」に会ったのは、彼女がまだあの白い世界の住人になる前のことだった。
 彼女は、風に靡く黒い髪と澄んだ闇色の瞳をもったとても綺麗なヒトで、僕は人目で彼女のことが好きになった。
 優しくて綺麗な彼女。


 ――羽純よ。よろしくね。


 ――ハズミ?


 ――そう。あなたの名前は?


 ――ぼく、ぼくのなまえは……



 あの頃、僕の身体や頭の中の機能は酷く不安定な状態で、僕はハズミに訊かれたことの半分も答えられなかった。 僕はその度に、情けないような、恥ずかしいような、とにかくハズミに対するごめんねって気持ちで胸が一杯になった。ごめんねハズミ。こんな僕の相手ばかりをさせてしまって。ごめんね。ごめんね。
 こんな僕で。



 ――大丈夫。聖(ひじり)は悪くないわ。


 そう言ってハズミは微笑う。いつも、いつも。


 ――だって聖は優しい子だもの。私は聖が大好きよ。



 優しく抱きしめてくれる腕は温かくて柔らかくて、僕はいつまでもその中にいたいと思った。
 優しいハズミ。
 僕だけのハズミ。

 
 ――ぼくも、ハズミが、好き、だよ?



 きっとハズミが言う「好き」と僕の中の「好き」は全然違うものだったのだろうけど、僕の言葉に、ハズミはありがとうと言ってまた微笑った。
 僕は、俯いたままハズミの白い服の裾を握りしめて、少しだけ泣いた。



 ハズミ、好きだよ。
 だから僕を独りにしないで。






 それから暫くたった。
 ハズミは今日も僕の隣で微笑ってくれているけれど、相変わらず簡単な会話ですらまともに出来ない僕がいい加減疎ましくなってきたのか、最近、会いに来てくれる日が目に見えて減った。


 ――ハズミ、


 ――なぁに?


 ――ハズミ、ハズミ、



 ハズミが嫌いな「ぼく」なら今すぐ殺してしまうから。



 ――ハズミ、好き、だよ?



 お願いだから「僕」を君の中から消さないで。



 ――好き、だよ。



 ハズミにまで嫌われてしまったら、僕はきっと生きていけない。
 だからどうか。
 どうかもう一度だけ優しい嘘を吐いて。




――ワタシモヒジリガダイスキヨ。






         ***     ***






 白い床、白い壁、白い天井。
 正方形に切り取られた白い箱の中で、羽純は今日も微笑っている。
 泣きもせず。
 怒りもせず。
 喜びもせず。


 ただ、微笑っている。






         ***     ***






 分かれは突然やってきた。



 ――ごめんね聖。ここに来るの、今日で最後なの。





 あの日は特別頭の調子がよくて、いつもならもっともっとたくさん時間をかけて理解しなきゃいけないことが、ほんの一瞬で理解できた。





 ――どうして?



 やっぱり僕のことが嫌いなったの?



 ――どうしてっ



 いつまで経っても僕が「直らない」から?
 僕が普通の人と違うから?



 ――どうしてっ!!



 
 ハズミはあの白い人たちとは違うと思ってたのに。
 ハズミなら、僕のことを本当に好きになってくれると信じてたのに。



 ――聖、大好きよ。さようなら。







 許さないよ。さよならなんて。








         ***     ***







 「ねぇ羽純、僕明日退院するんだ」
 にこにこと微笑いながら、僕は羽純に声を掛ける。
 けれど、羽純の視線は窓の外に固定されたまま、僕の方を向くことはない。
 羽純の瞳が映すのは、永遠に繰り返される過去のループ。
 ただそれだけだ。

 「本当に羽純には感謝してる。羽純がいなかったら、僕はきっと元になんて戻れなかった」

 そう。全ては羽純のために。
 羽純を手に入れるために、僕は再び目醒めて―――目醒めた僕は、彼女を壊した。
 もう、さよならなんて言えないように。
 僕を棄てたり、出来ないように。

 「だから今度は、僕が君を守ってあげる」

 ずっと、ずっと。






 ハズミ大好きだよ。
 たとえ君が、僕のことを忘れてしまったとしても。



 
       





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